明治20年(1887年)の7月から8月にかけて浜松高等小学校のオルガンを修理した山葉寅楠は、その構造を分析して自分でも作れると思った。
そこで、協力者の河合喜三郎(彼は飾り職人だった。飾り職人とは、金属製のかんざし・帯留め・指輪など金具の細工をする職人のこと)と一緒に修理したオルガンを模造して今で言うならレプリカの作成に成功した。
その後の事については、様々な歴史文書にあるとおりである。
さて、初期の製品が作られた場所は河合喜三郎の仕事場だった浜松池町3番地と思われる。(現在の池町芳鮮寺の南側にあたる)
事業は順調で池町の作業場では、すぐに手狭になり明治維新の改革で廃寺となった浜松成子の普大寺の庫裏を借りて移転し、山葉風琴製造所(別資料では製作所)とした。明治21位年3月の事である。
驚くのは、このスピード。試作に成功して事業化までこの間たったの半年なのである。
地図では、ほぼ中央に赤線で囲まれた普大寺の文字が見える。その右下に「七軒町」の文字。ここは現在の雄踏街道と言われる道。
この普大寺というのは、普化宗の寺院であった。普化宗は江戸時代に虚無僧の集団が形成された特殊な宗派だった。教義や信仰上の内実はほとんどないが、尺八を托鉢のために吹奏して歩いた。
そういう音楽にゆかりの場所で尺八ならぬオルガンを作りだしたのである。
これは大正7年の地図。稲葉山と書かれた辺りが普大寺のあった場所と思われる。
普大寺のあった場所は七軒町3番地。この町名は今はないが、かつては成子町と菅原町の間にあった町だ。
普大寺のあった場所は、ホテル・ヴィラクレタケの南にあるマンションの辺りだ。