明治22年、合資会社山葉楽器製造所は工場を浜松八幡地へ移し事業はさらに拡大していった。翌明治23年には浜松町大字板屋に工場を造った。
しかし、24年には不況のあおりを受け会社は解散してしまう。いったん山葉寅楠の個人経営となり5年後の明治30年、資本金10万円を集め株式会社を設立することになる
会社の名称も「山葉」を外し「日本楽器製造株式会社」とした。
場所は、工場があった大字板屋(現板屋町)である。
地図(大正6年作成)では玄忠寺(地図では左から寺忠玄)と法雲寺(地図では左から寺雲法)に挟まれた一帯で、現在の遠州鉄道第一通駅の東側にあたる。
写真は明治31年頃の板屋にあった日本楽器製造株式会社のようす。(ヤマハ百年史より)